2019年7月31日水曜日

時の流れを受け入れるようになった。
最近不思議なことに、とんでもなく忙しいとかそういうことではなくて、一つ一つを噛み締めるようになった。

恐らく今までも何度か立ち止まって考えることがあったと思う。
鹿日記も、これをテーマに書きたいと何度も試行錯誤して1ヶ月くらいのものを集約したものもあれば思い付いた一つの文書から何が言いたいかと解を求める場合もある。

自分が何者なのか、それは小さい頃からたまに考えることがあった。そのことは、色々な人生の出来事を通して明るみになっていったり、もちろん現段階で分かるはずもなく途中である。

東京に来て10年が経った。この期間共に同じような点で重なりながら仕事をしてきた人たちがいる。
一点からまた期間を開けてまた一点。

とても不思議なんだけど、再会する度、今自分の中で感じていることや考えていることが同じなのである。10年という間で自分でも色んな自分を見た。
でも時の流れを感じると、今そこに行き着いてしまったのだと。それはこれまでの最大限の試行錯誤と時代の流れをみることにあったのかもしれない。そこから自分の中での開示や、つきあい方その辺りも少し前よりは分かってきたりする。
そして多分それを踏まえてまた大きな新しいことに挑戦することになるんじゃなかろうか。次の10年に向けて。

この文章を朝に書き、今夕方に見ているのだが、自分が書いてるのにどの隙間にこんなことがやってくるんだろう。
もっと鰻のこととか、奈良のこととか書きたいこといっぱいあったはずなんだけどな。

2019年7月13日土曜日

久しぶりに奈良に帰ってきました。
東京はずっと曇りか雨だったので関西に着いた途端なぜ傘を持っているんだろうというくらい晴れ晴れしていて、それだけで見ているものや、自分の心の中にあったものへの考え方も違った景色に見えました。

最寄りの駅から実家までタクシーに乗って、
関西についてタクシーの運転手さんが一番最初に喋った人でもあるので、ずっとペラペラ話をしていました。
最近タクシーの運転手さんと話すことが増え、そしていつも良い会話になるので、めちゃくちゃ大きな声で何度か有難うございますといって降ります。
今日も「疲れましたらいつでも帰っていらしてください」と最後仰って下さって、穏やかな気持ちになりました。

こんな夜中に思い付いたことがあって、文章を始めたはずなのに何を書こうと思ったのか忘れてしまった。。
序章で今終わった感じですが、タクシーの運転手さんと最近こういうことがあったということで一先ずおわりにします。

今こんな夜中に椅子に座って本を読んでるのですが、工事の音も車の音も何も聞こえない自然の音の中で、これが凄く良いです。

2019年7月10日水曜日



最近自分でもびっくするのだが口にするものが変わった。これには多分、ペルーが与えたものが大きかったんじゃないかと思う。

元々小さな頃から思いを馳せていた『ナスカの地上絵』が見たいという情熱からペルーに行き、8人乗りのセスナ機で30分ほど飛行しながら見た。

私の胸の高鳴りは『今から出発します』という時がピークだった。
なぜ自分でもそうなってしまったのかは分からないけれど、ずっと見たいと情熱を注いでいたものを実際に見てしまい、その情熱がどこかに行ってしまって、降りた頃には空っぽになってしまった。

そのあと予定には入れていなかったマチュピチュに行ったのだが、こちらの方が実は感動した。
マチュピチュはどこから見ても皆が写真で見るマチュピチュで、どうも建物的に争いが多いというような建物には見えなかった。
標高も高くて回りが断崖絶壁だから、そんなに攻められることも無かったのだろうけど、時を越えても何だか平和な笑い声が聞こえてくるかのようだった。
そっちの方が気になって、帰って1ヶ月間、インカ帝国についての著書を読み漁っていた。
文字のない文明だったためにその時代の記録はほとんどないのだが、後にインカを侵略したスペイン人やインカの末裔の人達が記したものに
『インカは食糧や衣服を公平に分け、病人や老人も安心して暮らせる福祉国家だった』
そして時を越えて研究者は
『アンデスの厳しい自然は到底一人では太刀打ちが出来ず、アンデスの人々にとっての豊かさは財産をたくさん持っているということより、力を借りることのできる人との繋がりをたくさん持つことだった』

皇帝が、働いてくれる人たちに先にたくさんの報酬を与えていたというのも書いてあった。
「与える文化」であり「ミイラ文化」
この2つが私のなかで大きくインカ帝国について刻まれたことだった。
ミイラについてはここでは語りませんが、
そういうことが時を越えてもなんとなく建物から感じるって凄いなと思った。

そんなことから十分に食糧も豊富であったペルーでの市場ではアマゾンからやってきた食材のエネルギーに圧倒され、実際にアマゾンに行った人の話を聞くと、植物や木々が蠢いてるのがわかり、生命力に溢れている。そして自分は地球の一部なんだとアマゾン川で思ったのだそう。

そこから日本に帰って、自分の口にするものやお野菜を見るようになった。奈良のおばあちゃんの家がお米も野菜も育てていたようなところだったから、朝畑からとってきた野菜をお味噌汁に入れて食べる。

長らく東京に住んで、自分から四季を感じないと日常から聞こえてくる音や香りや風の温度で季節がよみとれなくなってしまった。
定期的に奈良から旬の野菜が送られてきた時は、段ボールから光が漏れてるんじゃないかというくらい輝かしい野菜たちが届き、
もう一度今自分の身体が欲しているものに気付こうというか、自ずとペルーに行って気付かされた。

ナスカの地上絵が見たいという小さい頃の夢は、大人になってもう一度自分の生活を、毎日を作るものを思い出させてくれた。

今日は初めて黒豆を買って煮てみた。
こんなに時間がかかるとは思わなくて、でもこの硬い豆の中にはたくさん力があるような気がしてならず、お汁も大切に頂こうと思った。