お元気でしょうかと聞くのも変なのですがたくさん笑っていらっしゃいますか。
無事に4公演が終わりました。私は2013年にこのブログを始めているのですが東京に来た8年前からブログを続けていました。でも一度何もかも辞めたくなるようなこともあって、しばらく辞めて、また2013年から始めています。最初の記事の2つ目になるのですが「監督」という文字が出てくるのですが、ずっと言えずに今日になってしまいました。
当時のことは詳しくは説明しませんが、お芝居というものがあると私に与えてくれた一番最初の人は塩屋監督でした。塩屋監督が脚本演出を担当する舞台のオーディションによく分からず行ったことが監督との出会いで、そこから半年くらい監督のスクールで学んでいました。そのとき東京に来て4年くらい経っていたのですが、モデルの仕事もそんなに無くて、何だか目の前には新しい世界が広がったと思ってがむしゃらに学びに行っていた矢先に監督の突然の訃報を新宿の伊勢丹の前辺りで電話で聞いて、その場で一目も憚らず泣きじゃくったのを覚えています。出会うことが出来ないようなとても素晴らしい方で私に夢を与えて下さった大きな存在だったので、そのとき自分にはもう頑張れることは何も無いと、奈良に帰ることを決心しました。監督が亡くなって2週間後ちょうど御縁あって、yoshiki hishinumaさんのクチュールのコレクションでパリに行くことになっていたので、それを最後に奈良に帰りたいと社長に鰻屋さんで話をして、イギリスにはユーロスターで行けるみたいだし、行ったことも無いイギリスにでも1週間行ってみようとフラッと行ってみました。あまりにもフラッと行き過ぎたのとまだ悲しみから立ち直っていなかったのもあって、bond street辺りのベンチにずっと座ったまま、何しにイギリスに来たんだろうと思いながら、フッと塩屋監督の言葉を思い出し、これじゃいかんと、イギリスのエージェントに扉を叩きに向かいました。オープンコールというモデルがアポイントなしに立ち寄っても良い時間帯というものがあるのですがそれが16時までで、そのとき時間が15時50分だったのでそこから一番近い事務所に走って行った所、道に迷ってスーパーマーケットに間違って入った所を行こうと思っていた事務所のヘッドブッカーに声をかけられました。
色々な質問を受けながら、英語も話せなかったけど信じて決意してことを進めて事務所に入ってみると、当時モデルとして大好きだったstella tennantさんの大きな写真が事務所に入ると飾ってあって、映画の中の世界みたいなことが起きました。
すぐに日本の社長に電話して、奈良に帰るのを撤回して、本当に本当に不思議なことが起こって、塩屋監督の奥様にお会いしたことがあったので、日本に帰ってから奥様にお手紙を書きました。
そこから3年が経って、またお芝居をやる時が巡って来るとは思わず、塩屋監督の奥様も観に来て下さいます。監督のお兄様である塩屋孔章さんも観にいらして下さって、「素晴らしい作品に出会いましたね」という言葉を頂いて、何だか私にはまだお芝居ではよく分かっていないことが多いのですが、これからも一生懸命勉強して、私に夢や色んなことを与えて下さった方々に恩返しができるように一生懸命一生懸命頑張らないとって改めて思いました。それは及川さんからも教わったことです。
この舞台のオーディションの日にちょうどテレビで鈴木亮平さんの恩師として塩屋監督の映像がテレビに映って思わず涙を流してしまったのですが、それがまた必ずやってみせるという気持ちに変わりました。こんな日が自分の人生に待ってると思わなかったです。
無事に4公演が終わりました。私は2013年にこのブログを始めているのですが東京に来た8年前からブログを続けていました。でも一度何もかも辞めたくなるようなこともあって、しばらく辞めて、また2013年から始めています。最初の記事の2つ目になるのですが「監督」という文字が出てくるのですが、ずっと言えずに今日になってしまいました。
当時のことは詳しくは説明しませんが、お芝居というものがあると私に与えてくれた一番最初の人は塩屋監督でした。塩屋監督が脚本演出を担当する舞台のオーディションによく分からず行ったことが監督との出会いで、そこから半年くらい監督のスクールで学んでいました。そのとき東京に来て4年くらい経っていたのですが、モデルの仕事もそんなに無くて、何だか目の前には新しい世界が広がったと思ってがむしゃらに学びに行っていた矢先に監督の突然の訃報を新宿の伊勢丹の前辺りで電話で聞いて、その場で一目も憚らず泣きじゃくったのを覚えています。出会うことが出来ないようなとても素晴らしい方で私に夢を与えて下さった大きな存在だったので、そのとき自分にはもう頑張れることは何も無いと、奈良に帰ることを決心しました。監督が亡くなって2週間後ちょうど御縁あって、yoshiki hishinumaさんのクチュールのコレクションでパリに行くことになっていたので、それを最後に奈良に帰りたいと社長に鰻屋さんで話をして、イギリスにはユーロスターで行けるみたいだし、行ったことも無いイギリスにでも1週間行ってみようとフラッと行ってみました。あまりにもフラッと行き過ぎたのとまだ悲しみから立ち直っていなかったのもあって、bond street辺りのベンチにずっと座ったまま、何しにイギリスに来たんだろうと思いながら、フッと塩屋監督の言葉を思い出し、これじゃいかんと、イギリスのエージェントに扉を叩きに向かいました。オープンコールというモデルがアポイントなしに立ち寄っても良い時間帯というものがあるのですがそれが16時までで、そのとき時間が15時50分だったのでそこから一番近い事務所に走って行った所、道に迷ってスーパーマーケットに間違って入った所を行こうと思っていた事務所のヘッドブッカーに声をかけられました。
色々な質問を受けながら、英語も話せなかったけど信じて決意してことを進めて事務所に入ってみると、当時モデルとして大好きだったstella tennantさんの大きな写真が事務所に入ると飾ってあって、映画の中の世界みたいなことが起きました。
すぐに日本の社長に電話して、奈良に帰るのを撤回して、本当に本当に不思議なことが起こって、塩屋監督の奥様にお会いしたことがあったので、日本に帰ってから奥様にお手紙を書きました。
そこから3年が経って、またお芝居をやる時が巡って来るとは思わず、塩屋監督の奥様も観に来て下さいます。監督のお兄様である塩屋孔章さんも観にいらして下さって、「素晴らしい作品に出会いましたね」という言葉を頂いて、何だか私にはまだお芝居ではよく分かっていないことが多いのですが、これからも一生懸命勉強して、私に夢や色んなことを与えて下さった方々に恩返しができるように一生懸命一生懸命頑張らないとって改めて思いました。それは及川さんからも教わったことです。
この舞台のオーディションの日にちょうどテレビで鈴木亮平さんの恩師として塩屋監督の映像がテレビに映って思わず涙を流してしまったのですが、それがまた必ずやってみせるという気持ちに変わりました。こんな日が自分の人生に待ってると思わなかったです。