長い長い物語を読んだ。自分がこういう物語に出会うと思わなかった。
今まで幾度となく本を読まないと、本を読まないとと思って来たのだが、じっと本を読んでいられる自分がいなかった。
中学校3年生の時に担任が国語の先生だった。
先生は本を読む事をとにかく生徒にすすめていて、先生に「本を貸して下さい」と言って良かった。どんな本が良いかと先生に聞かれて、そんなことが分かる子もいれば分からない子もいたので、先生はきっとその子に合った本を選んで貸してくれていたに違いない。
借りるときの条件は必ず感想文を添えて返却する事だった。
「今から読めば高校受験には間に合わないけど、大学受験には間に合うから、本を読みや」といつも言っていた。本当自分にはその言葉が心に残るくらい本を読まないとと思って来た事だったので、今でも心に残っている。
ここ数年で本を自分が読むという行為について習慣化はされていないがパターンが分かってきた。
舞台を自分がやる前は、急激にアウトプットが続く日々に備えて、なぜか足早に色んなものを見て身体に入れようとするパターン。
海外から帰ってきたときに、日本語が欠乏して、純文学を欲するようになるパターン。夏目漱石を読んでゲラゲラ笑う自分を疑ったほどだ。
だいたいこの二つが大きく気持ちを占めていた。
つい先月、クロワッサンの昨年度の8月号を読んだ。本の特集だった。本を読むという事について、それぞれの人の人生にとって大切である本の紹介や、本を評論する人からの本に対する想いや、本を書く人からの言葉。これを読んでからというもの、私の中で本に対する考えが変わったのだ。
それからというもの、なぜか少しずつだが本を読めるようになった。
登場人物が自分の死を感じる場面に何度も直面する。その直前の感情が書かれている登場人物の心情には、これはこんな感情を想像して書けるものなのであろうか、もしそうでなかったらこれは本当に経験した感情なのだろうか、
物語を早く先へ先へ読みたいと思わせてくれるものだった。510ページほどあるその本の左手が軽くなって来た頃、早く読みたい気持ちとこの本を読みきってしまっては日常の楽しみが減ってしまうと思った。いつもより長くお風呂に浸かっていた、電車を乗り過ごしてしまった。この一冊のお陰で私の日常は変わった。とても楽しかった。いつも読み続きのページを開いてもその物語は待ち構えていてくれたし、ページを閉じた時には、自分の気持ちは目の前の世界に新しかった。