2014年4月25日金曜日

相対

 
昨日、ロサンゼルスから帰ってきた友人と
海外で過ごした時間と日本で過ごす時間についての話をしました。
 
イギリスで英語がままならなかった私の耳は常に全力を尽くしてくれている状態で、音にとても敏感になっていました。音がダメなら目に見える範囲で何か察知しようとしたり、普段働かせていた部分が日常から違っているからか、初めて感じた事が非常に多く、それを毎日少しずつノートに書き留めていました。
 
日本と同じ時間が用意されているはずなのに時間の使い方も自分の内なるものに耳を傾ける時間が非常に多かったので、頭の中に浮かんでくる言葉に対して式を少し上手く並べられるようになって、自分なりの解を何かしら導き出せるようになった気がします。
 
日本にいると何も考えなくても人が話していることが耳に入ってきて
情報がとても多くて、あれをしようかこれをしようかとそのものに対し本当の自分の本意に基づいているのかの判断にすら辿りついていなかったけれど
イギリスにはモデルとして行っているという確固たるものもあったので、仕事も日常も自分の中に取り込めるものを集中して取りこんだような気がします。
 
そうすると何が好きなのか、どうすればどうなのかと少しは自分の内側に耳を傾けるのが上手になったというのでしょうか、そうなると体に何かしらの反応が出ても、そのことに対して感謝ができるようになり、感じたこと全てが身体に反映されて、それもまた感謝の気持ちに変わりました。

イギリスで思い切りが良いほどに体調を崩してしまい、そのお陰で生きて行く上でとても大事な食の面と、”自分を知る”という表現者としてとても大事なことを学び、究極はこんなことになるのかという自分の弱さも知り、こんなことでくたばってたまるかという自分の強さも同時に知りました。

そして何より今回仕事を通じて、本当に悔しいと心から湧き立つ情念というのでしょうか、この気持は部活以来で、それを感じられたというのは、大袈裟かも知れませんがそれが今の自分にとって全てであり、自分を担保にして挑む事柄であると改めて感じました。悔しいからやる。のだと。

その気持があったからこそ、美しいものを美しいと感じることが出来たのかも知れません。